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“正しい姿勢”というものはなく、あるのは“楽で機能的な姿勢”である

ところで、姿勢というのは本当に変わるものなのだろうか。習慣が長くなればなるほど、そんな不安に駆られます。もし痛みがあれば、むしろ変化は受け入れやすいのですが、そうでない場合はなかなか簡単ではありません。

また、身体の使い方はアイデンティティにも関連しているため、信念が変わらないと姿勢もなかなか変わりません。たとえばダンサーの多くは肋骨の前側を引き上げていますが、これを手放すのは容易なことではありません。ダンサーはこうあるべきという価値観がそこにはあります。変化を受け入れるには、この姿勢が及ぼす動きへの影響を知り、過去の価値観よりも新しい自由さを選択しなければいけません。

ところが、ここで身体全体が変わろうとするのを妨げるものが顔を出します。たとえば反り腰が邪魔をすることもありますが、逆に反り腰を直そうとする意識が邪魔になってしまうこともあります。一部に意識をフォーカスしてしまうことで、全体性が失われてしまうのです。

実は、全体のバランスを私たちはあまりわかっていません。それは身体が知っていることです。つまり、私たちが頭で考えることはあまり役立たず、「身体にやってもらう」ほうがうまくいくのです。

ここが姿勢を変えるためのポイントなのです。意識することは意外に簡単でも、意識するなといわれると途方に暮れてしまいます。かくいう私が最も苦心しているのがこの点です。

でも今日、霧の中に一筋の光を照らすアイデアをひとつ得ることができました。アレクサンダーテクニーク教師アイリーン・トロバーマンの「身体の楽なところに意識を向ける」というアイデアです。

身体を探求し続けていると、身体からのシグナルに少しずつ鋭敏になっていきます。たとえば痛みを感じていたとしても、微細にその部分を動かしていると、痛みがずっと続くわけではなくマダラ模様のようなものであることに気づくことがあります。

頭痛の際にも頭蓋骨や頸椎をほんの少し動かしてみたり、息苦しさを感じたときに肋骨をほんの少し動かしてみるのです。そのときに、ふっと“楽なところ”があれば、そこにフォーカスしてみます。

私には、頭痛こそがこの数年間で良い練習になりました。以前は連続的であると感じていた痛みが、ほんの少し動かすことで痛みが途切れる瞬間があることがわかり、しだいに痛みの範囲が小さくなっていくのを感じました。これは実際に痛みが小さくなったのではなく、起きていることは変わらないのだけど、痛みが起きている部分に自分がアプローチできるようになってきたのではないかと思います。

なぜ痛みが起きているかを知る必要はありません。痛みが起きている場所を知る必要もありません。ただ“楽なところ”に居続けるのです。それは移ろっていくこともあるので、追いかけ続けます。すると、痛みはやがて消えてしまいます。

これはもちろん、ある程度の練習が必要だと思います。大切なのはほんの少し、“微細に”動くというところで、繊細な感性も必要とします。最初はまるで、濃い霧の中にうっすらと浮かぶ光の正体を追い求めていくような感覚です。このときに道しるべとなるのが、やはりトップジョイントでした。トップジョイントがまず“楽”なこと。ここから始めれば光の正体はしだいに見えてきます。

今、私が取り組んでいるのは、頭だけなく身体全体でこれを行うことです。呼吸が楽なところ、楽に立っていられるところ、楽に笑顔でいられるところ。脳というのは不思議なもので、“楽になる”というポジティブな指令に、身体は今までより素直に反応してくれるのが感じられます。つまり、今まで私がいかに身体に強引な指令を送っていたかに気づかされました。

「身体にやってもらう」ということは、古い脳の働きです。腰が反らないように、と考えてしまうのは新しい脳の働きで、そのやり方は手放す必要があります。私にできるのは、脊椎をどう動かすかには干渉せず、身体が楽になることを意図することだけなのです。あとは身体が微細に動くのを許し、光のほうへ向かっていけばよいだけです。

しかし、これも瞬間的なものであり、またいつでも元に戻ってしまう危うさがあります。古い信念を手放すのには、まだ少し練習が必要ですが、私にとっては大きな一歩でした。

思えば「楽になる」という言葉は、身体を探求していく段階において、今まで何度も耳にしてきた言葉です。言葉自体は初めてのアイデアではありません。それなのに、今まで“楽になる”ということに、なぜこれほどに困難さを感じていたのか。それが習慣の根深さであり、無意識にしがみついている信念なのでしょう。それを手放すのに、私なりの時間とプロセスを要しています。

身体の使い方を学ぶことは、“正しい”姿勢になることではなく、身体を解放することだと感じます。古い信念を捨て、すべての緊張から解き放たれたときに、出現してくる本来の自分とはどんな自分なのか。そこに好奇心をもって、自分を探求し続ける。これは生涯を費やすに値する、楽しく建設的な学びなのです。

Fatima(大島ふみこ)

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