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〈ベリーダンサー伝〉サミア・ガマル

Samia Gamal
サミア・ガマルはオリエンタル・ダンスの歴史に名を残すダンサーであると同時に、エジプト映画の黄金期を飾った代表的なダンサーです。1940〜60年代初頭にかけて少なくとも50本の映画にダンサーとして登場し、いくつか女優としても演じています。エジプト映画はオリエンタルダンスの発展に大いに貢献しました。それだけ頻繁に映画の中でダンスシーンが描かれたのです(これはダンスがエジプト人の生活に欠かせないものであったことも表します)。
サミア・ガマルは1924年、エジプトのカイロ南部にある町ベニ・スウェフに生まれました。本名はゼイナブ・ハリル・イブラヒム・マフォウズ。彼女がわずか8歳のときに母親が死亡し、父親は再婚しましたが、新しい母親が彼女を虐待したため、サミアは姉妹や義理の兄弟とともにカイロに移転することになりました。このときサミアは13歳で、彼女の実の父はすでに死亡していました。カイロでは当初サミアは姉の家で家事を手伝っていましたが、姉の一家も困窮してきたため、服飾工場や看護師として仕事をすることになりました。
幼い頃から踊りが好きだったサミアは、バディア・マサブニなど当時のスターダンサーが踊るシーンが挿入された映画に魅了されていました。チャンスは彼女が15歳のとき、ガマル・カフェテリアで起きました。ここのオーナーの息子が、彼女がバディア・マサブニに会いたがっていること、ダンサーになることを夢見ていることを聞きつけ、知人だったバディア・マサブニに彼女を紹介してくれたのです。バディアは彼女の本名ゼイナブはダンサーにふさわしくないと思い、サミアと名付け、2人が出会うきっかけとなったカフェテリアから姓をとってサミア・ガマルという名が生まれました。
こうしてサミアはバディア・マサブニが働くナイトクラブ「オペラ・カジノ」で働き始めました。最初はよくあるコーラスダンサーとして、給料は月に3ポンドでした。初めてサミアがソロダンサーとして踊ったとき、彼女は観客のブーイングを受けてステージを降ろされたといいます。これを機にサミアは意を決し、当時、映画のダンスシーンやオペラカジノのグループダンスの振付を行なっていたレバノン人の振付師アイザック・ディクソンのプライベートレッスンを受けることにしました。その後、サミアは再度ソロのステージに立ち、今度は成功して彼女のキャリアがそこからスタートしました。サミアは数々のナイトクラブのステージに立ち、ギャラも上昇し、海外を旅し、映画にも出演するようになったのです。
プライベートでは、サミアは有名な歌手・作曲家のファリド・アル・アトラシュと11年に渡る親密な関係にありましたが、2人が結婚することはありませんでした。ファリドはシリアの王室ファミリーの出身だったため、ダンサーと結婚することはできなかったのです。また、ファリドは「結婚は芸術を殺す」と信じていました。
ファリドとの別離のあと、サミアは裕福なアメリカ人シェファード・キングと結婚しました。シェファードはサミアのためにイスラム教に改宗し、2人はアメリカのヒューストンで暮らし始めましたが、1年で離婚。サミアはエジプトに戻ります。その後、俳優のルシディ・アバザと2度目の結婚をし、2人は娘をもうけてルシディが死亡する1982年までともに暮らし、サミアは1994年、70歳で死亡しました。

参考:World Belly Dance https://www.worldbellydance.com/samia-gamal/

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